生没年 | 生没年不詳 |
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時代 | 戦国時代 |
所属国 | 趙→魏→楚 |
<史実>
廉頗(れんぱ)は中国戦国時代末期の趙の将軍。(将軍→上卿→宰相→将軍)
藺相如(りんしょうじょ)との「刎頚の交わり(ふんけいのまじわり)」の逸話が有名である。
紀元前282年、将軍となって秦を攻め、昔陽(せきよう)を取った。
翌年の紀元前283年、斉を攻め、陽晋(ようしん)を落とした。この功績により、上卿(じょうけい)に任じられ、廉頗の名は諸侯の間に広く知られることとなった。
紀元前278年、斉を攻め、幾を落とした。
紀元前275年、魏の防陵(ぼうりょう)、安陽(あんよう)を攻め、房子(ぼうし)を落とした。
紀元前260年、秦の王齕(おうこつ)が上党を取った。上党の人々が趙の長平に逃げ込むと、王齕軍はこれを追ってそのまま趙に攻め入った。
総大将の廉頗率いる趙軍は塁壁(るいへき)を築いてそれを防いだ。秦軍は激しく攻めたが、その勢いを見た廉頗は籠城(ろうじょう)を開始し、守りを固めて持久戦に持ち込んだ。
長引く戦に秦軍は疲労し、戦がこれ以上長引くことに危機感を抱いた秦は、趙へ間者(スパイ)を出して千金を撒き、「秦が何よりも恐れているのは、名将趙奢(ちょうしゃ)の子・趙括(ちょうかつ)が総大将になることだ」と流言させ、経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとはまった趙の孝成王は、藺相如や趙括の母が止めるのも聞かず、廉頗を更迭(こうてつ)し、趙括を総大将に置いた。
その結果、趙軍は白起(はくき)率いる秦軍に大敗し、40数万もの兵が生き埋めにされた。(長平の戦い)
紀元前252年、燕の栗腹(りっぷく)が趙に攻め入った。趙は廉頗を将軍としてこれを迎え討ち、鄗(こう)で燕軍を大いに破って栗腹を討ち取った。その勢いに乗じて、燕の都・薊(けい)を包囲し、趙は燕から5城を取って和睦(わぼく)した。
これらの功績により、廉頗は信平君に封(ほう)ぜられ、仮の宰相となった。
紀元前245年、趙は廉頗を将軍として魏に攻め入った。その最中、孝成王が没して、子の悼襄王(とうじょうおう)が即位すると、悼襄王は廉頗を更迭して、楽乗(がくじょう)を将軍に置いた。
これに激怒した廉頗は、楽乗を攻めて敗走させ、魏に亡命した。
その後、廉頗は魏の大梁(だいりょう)で長らく亡命生活を送るが、重用されずにいた。その頃、秦の侵攻に苦しめられていた趙は、廉頗を趙に呼び戻そうと考え、廉頗のもとに使者を送った。
廉頗は使者の前で1升の米と10斤の肉を食べて、鎧を着て馬に乗ってみせ、まだまだ健在であることを示してみせたが、以前から廉頗と不仲であった郭開(かくかい)が使者に賄賂(わいろ)を送って買収したため、使者は「将軍は老いを感じさせぬ健啖(けんたん)ぶりでしたが、私といる間に3度も糞尿をもらされました」と嘘の報告をした。これを聞いた趙王は、廉頗は耄碌(もうろく)していて使いものにはならないと考え、呼び戻すことを諦めた。
その後、廉頗は楚に招かれて将軍となるが、功労はなく、「もう一度趙の兵を率いて戦いたいものだ」と語るが、叶うことなく寿春(じゅしゅん)で没した。
<キングダム>
旧趙の三大天の一人として活躍した人物で、現在は魏に亡命中。
根っからの戦好きで、秦の六大将軍らとしのぎを削って激戦を繰り広げた、かつての黄金時代を今も忘れられずにいる。