生没年 | ?~紀元前257年 |
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時代 | 戦国時代 |
所属国 | 秦 |
<史実>
白起(はくき)は中国戦国時代の秦の名将。
秦の郿(び)県の出身。
若い頃から用兵術に長けており、秦の昭襄王(しょうじょうおう)に仕え、紀元前293年、秦の宰相魏冄(ぎぜん)に登用された白起は将軍として数々の戦場を駆け巡り、行く先々で勝利を収めた。
紀元前294年、白起は左庶長(さしょちょう)に任じられ、兵を率いて韓の新城を攻めた。
紀元前293年、伊闕(いけつ)の戦いでは韓、魏を攻めて勝利を収め、首を斬ること24万であった。魏の公孫喜(こうそんき)を捕らえ、5城を落とした。
紀元前292年、魏を都を攻め落とし、61城を奪った。
紀元前291年、司馬錯(しばさく)と共に垣の城を攻め落とした。
紀元前286年、趙を攻め、光狼城を落とした。
紀元前279年、楚を攻め、鄢(えん)、鄧(とう)など5城を落とした。
紀元前278年、楚を攻め、都の郢(えい)を落とした。これにより、楚王は郢から脱出して東の陳に都をうつした。
同年、白起はこれまでの功績により武安君に封ぜられた。
紀元前273年、魏を攻め、華陽(かよう)を落として魏の将軍茫卯(ぼうぼう)を敗走させ、三晋の将を捕らえた。首を斬ること13万であった。
同年、趙の将軍賈偃(かえん)と戦い、その士卒2万人を黄河に沈めた。
紀元前264年、韓の陘城(けいじょう)を攻め、5城を落とした。首を斬ること5万であった。
紀元前260年、長平の戦いが起こった。
秦の計略により、趙の廉頗(れんぱ)が罷免(ひめん)され、趙括(ちょうかつ)が総大将に任命されると、白起は趙括率いる趙軍を兵糧攻めに追い込んで大勝した。趙軍40万人が降伏するが、白起は反乱の恐れがあるとして少年兵240人を除く全てを生き埋めにした。
この大敗に恐れをなした趙は、蘇代(そだい)を秦へ送り、秦の宰相范雎(はんしょ)に働きかけた。蘇代は「今もし趙が滅亡すれば、白起は三公(臣下の最高職)に昇進するでしょう。そうなればあなたは白起の下の立場となりますが、それでよろしいのですか」と説いた。これを聞いて范雎は昭襄王に「兵が疲労しているので、ひとまず和議を結んで休ませましょう」と進言し、和議が結ばれ戦は停止された。
翌年、秦は再び出兵し、趙の都・邯鄲(かんたん)を攻めた。この頃、白起は病により戦いに参加できなかった。秦の将軍王陵(おうりょう)は邯鄲を攻めるが、陥落させることができず、さらに魏の信陵君(しんりょうくん)と楚の春申君(しゅんしんくん)の援軍により大敗した。
昭襄王は白起に出陣を命じるが、白起は「邯鄲は不落の要害にあり、諸侯の救援も日に日に増えています。我が国は長平で勝利を収めこそしましたが、兵力を大きく失いました。国内が無防備な状態のまま遠征を続け、趙が反撃に転じ、諸侯が外から攻めてくるようなことになれば、我が軍はひとたまりもありません。攻撃は中止するべきです」と言って、病気を理由に引き受けようとしなかった。
そこで昭襄王は王陵を解任して王齕(おうこつ)に代わらせた。邯鄲の包囲は9ヶ月にもおよんだが、落とすことはできず、秦軍は包囲を解いて退却した。
敗戦の知らせを聞いた白起は「私の言うことを聞かないからだ」と漏らし、これを聞いた昭襄王は大いに怒り、白起から武安君の位を剥奪(はくだつ)して、一兵卒に身分を落とし、首都咸陽(かんよう)から追放した。
紀元前257年の11月、白起は咸陽から出発し、西門から10里ほど来た頃、昭襄王からの使者がやってきた。白起は剣を賜り、これで自決せよとのことであった。
死の直前、白起は「私はなぜこのような報いを受けねばならないのか」と自問した。
そして、しばらく考えたのちに、「いや、私は死んで当然だ。長平の戦いでは40万もの兵を生き埋めにしたのだから」と言って、自らの命を絶った。
<横山光輝史記>
第16話に登場。
<キングダム>
かつて名を馳(は)せた秦の六大将軍の一人。
長平の戦いの回想シーンに登場。
秦兵に生き埋めの再考を提案されるが、「やれ」の一言で40万人を生き埋めにする