生没年 | 生没年不詳 |
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時代 | 戦国時代 |
所属国 | 秦 |
<史実>
王齕(おうこつ)は中国戦国時代末期の秦の将軍。
紀元前262年、秦の白起(はくき)が韓の野王を落とし、これにより韓の北方の領土である上党郡は孤立した。
上党の太守馮亭(ふうてい)は官民の意見を受け、上党を趙へ献上した。趙の孝成王はこれを受け入れ、上党は趙の領土となった。
紀元前260年、秦は王齕を派遣して上党を奪った。上党の人々が趙の長平に逃げ込むと、王齕軍はこれを追ってそのまま趙に攻め入った。
廉頗(れんぱ)率いる趙軍は塁壁(るいへき)を築いてそれを防いだ。秦軍は激しく攻めたが、その勢いを見た廉頗は籠城(ろうじょう)を開始し、守りを固めて持久戦に持ち込んだ。
長引く戦に秦軍は疲労し、戦がこれ以上長引くことに危機感を抱いた秦は、趙へ間者(スパイ)を出して千金を撒いて「秦が何よりも恐れているのは、名将趙奢(ちょうしゃ)の子・趙括(ちょうかつ)が総大将になることだ」と流言させ、経験不足の趙括が総大将になるように仕向けた。この策にまんまとはまった孝成王は、廉頗を罷免し、趙括を総大将に任命した。
秦では趙括が総大将になったとわかると、密かに白起を増援させて総大将とし、王齕をその副将とした。
その結果、白起率いる秦軍は趙軍を兵糧攻めに追い込み、大勝した。
紀元前259年、王齕は白起に代わって、趙を攻め、皮牢を取った。
紀元前258年、秦の王陵(おうりょう)が趙の都邯鄲(かんたん)を包囲するもなかなか落とせず、翌年、王陵は解任され王齕に代わる。
紀元前257年、王齕は邯鄲を攻めるが落とせず、秦軍は包囲を解いて退却し、汾城(ふんじょう)郊外の秦軍と合流した。
その後、魏軍を攻めて首を斬ること6千、魏軍は敗走し黄河で溺死した者は2万人に及んだ。続いて汾城も攻め落とし、張唐に従って寧新中を落とした。
紀元前247年、韓の上党を攻めて、太原郡(たいげんぐん)を置いた。魏の信陵君(しんりょうくん)が五カ国連合軍を率いて秦を攻めてきたのを蒙驁(もうごう)と迎え撃つが敗れた。
王齮(おうき)との同一人物説がある。
<横山光輝史記>
第16話に登場。
<キングダム>
かつて名を馳(は)せた秦の六大将軍の一人。
回想シーンのみの登場。