意味:相手のためなら殺されても後悔しないと思うほどの親密な関係。
由来:中国戦国時代、和氏の璧(かしのへき)や黽池(べんち)の会の一件ののち、藺相如(りんしょうじょ)はこれまでの功績により上卿(じょうけい)に昇進したが、趙の将軍廉頗(れんぱ)はこれに対して不満を持った。
多くの武功を残す廉頗からすれば、一食客であった藺相如が口先だけで出世して自分より上の位になったことが許せなかった。
そのことを知った藺相如は、廉頗を徹底的に避けることにした。病気と称して屋敷に篭り、宮中に参内するときも廉頗がいない日を見計らって行くようにした。
ある日、外出したときに道で廉頗とすれ違いそうになった藺相如は慌てて脇道へと隠れた。その様子を見ていた家臣たちはあきれて藺相如を臆病者だと非難し、辞職を申し出た。
すると藺相如は言った。
「あの強国である秦が容易に攻めてこないのは、我が国には廉頗将軍と私がいるからだ。廉頗将軍と私は共に趙国にとって不可欠な人材であり、その二人が争っては秦に乗じられる隙を与えてしまうこととなり、またどちらかが失脚すればその侵攻を防げなくなってしまう。国の安定のためなら自分の恥など何のことはない」
藺相如の真意を知った家臣たちは感服し、再び藺相如に仕えることを誓った。
この話はたちまち宮中でも噂となり、これを聞いた廉頗は自分の考えを恥じて深く反省し、藺相如の屋敷へ謝罪に出掛けた。
そして上半身裸になって座り、頭を下げて背負っていた茨の鞭を差し出して言った。
「貴方の寛大なお心を知って、自分がいかに愚かであるか気付かされました。どうか、気の済むまでこの鞭で打って頂きたい。今まで貴方に与えた屈辱を考えればそれでも足りないでしょう」
これに対して藺相如は、「何を仰せられますか廉頗将軍、どうか顔をお上げください。廉頗将軍がおられるからこそ秦はこの国に手出しできないのです」と快くこれを許した。
藺相如の心の広さに心打たれた廉頗は、「私は貴方のためならばこの頚(くび)を刎(は)ねられても悔いはない」と誓い、
藺相如もそれに応えて、「私も廉頗将軍のためなら喜んで頚を刎ねられましょう」と誓った。
このことから、生死を共にするほどの親しい関係を「刎頚の交わり」と言うようになった。
秦はその後、廉頗と藺相如が健在なうちは趙に攻め込むことができなかったという。