生没年 | ?~紀元前645年 |
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時代 | 春秋時代 |
所属国 | 斉 |
管仲(かんちゅう)は中国春秋時代初期の斉の名宰相。
姓は管、名は夷吾(いご)、字は仲。
斉を強国にし、主君である桓公を最初の覇者にまで押し上げた。
幼馴染みの鮑叔(ほうしゅく)との深い信頼関係は「管鮑の交わり」の故事として後世に知られている。
紀元前686年、斉の襄公(じょうこう)が従兄弟の公孫無知(こうそんむち)によって暗殺され、その公孫無知もまた暗殺されてしまったことで、襄公の弟である糾(きゅう)と小白(しょうはく)(のちの桓公)の間に後継者争いが起き、その後見役であった鮑叔と管仲も争いに巻き込まれてしまう。
後継者争いに勝利した小白は即位して斉の16代君主桓公となり、すぐに糾と管仲の亡命先である魯へと進軍を開始した。
抵抗する糾と魯軍を破った桓公は、魯に使者を送り管仲の身柄の引き渡しを要求して、反逆の罪で管仲を処刑しようとした。
しかし、管仲とは長い付き合いでありその才能をよく知っていた鮑叔は、桓公に天下の覇者となるためには管仲こそ必要な人物であると訴えた。
鮑叔の言葉に心動かされた桓公は、管仲を斉の宰相として迎え入れることにした。
宰相となった管仲はまず経済政策に取り組んだ。
管仲は「政治で大切なのはまず与えることだ。飢えの心配が無くなれば人々は着るものや装飾品を求めるようになり、物の流れは活気づいて、商業は発展する。生活にゆとりができれば道徳意識は自ずと高まり、人々は法をよく守るようになる。豊かな土地には人が自然と集まるものであり、まず民を豊かにすることが、国を豊かにすることになる。これが富国強兵である」と考えた。
そして農業、商業、海に接する斉の地形から塩の生産などを奨励し、一方で不正をはたらいて利益をあげる者に対しては厳罰に処し、厳しく取り締まった。
これにより斉の商業は大いに活発化し、斉には各地から商人が集まるようになった。
こうして斉国の財政は潤い、各地から優れた人材が集まって、一大産業国家へと変わっていった。
<横山光輝史記>
第2話に登場。
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