百里奚:ヒャクリケイ

生没年 生没年不詳
時代 春秋時代
所属国 虞→秦

百里奚(ひゃくりけい)は中国春秋時代の秦の宰相。または五羖大夫(ごこたいふ)とも呼ばれる。

楚の出身、あるいは許の出身とも言われており、出身地ははっきりとはわかっていない。

 

百里奚は秦の宰相になる前は、仕官先を求めて諸国を放浪していた。

斉を訪れた百里奚は、飢えて倒れていたところを蹇叔(けんしゅく)という人物に助けられた。

百里奚のもとには当時の斉の君主であった襄公(じょうこう)に仕えないかという話がきていたが、蹇叔に反対され取りやめとなった。(襄公はその後、紀元前686年に公孫無知(こうそんむち)によって殺された)

次に百里奚は、周王朝の王子頽(たい)に仕えようとするが、これも蹇叔に止められた。(王子頽はその後、紀元前673年に殺された)

さらに百里奚は、虞(ぐ)へと仕官しようとするが、ここでもまた蹇叔に止められた。

しかし百里奚は蹇叔の反対を押し切って、虞の大夫として仕官することにした。

 

秦の穆公(ぼくこう)が晋の献公(けんこう)の娘を夫人に迎えたその翌年、晋の献公は虞と虢(かく)を滅ぼし、虞の大夫であった百里奚を捕虜にして、穆公夫人の従者として秦に送った。

しかし、百里奚は秦から脱走して、楚の宛(えん)へと逃亡して奴隷となった。

穆公は百里奚が稀代の賢人であることを知り、大金をはたいて買い戻そうと考えるが、これによって楚に百里奚の才能を察知されてしまい、引き渡しを拒否されてしまうかもしれないと思い直し、わざと安値で交渉した。

百里奚は羊の皮5枚で買い戻され、秦に連れ戻された。これに由来して百里奚は五羖大夫と呼ばれた。

百里奚が秦に戻ると、穆公は三日三晩の間百里奚と語り合い大いに満足して百里奚に国政を任せることを決めた。

このとき百里奚はすでに70歳を越える高齢であったという。

さらに穆公は百里奚の勧めで、蹇叔を秦に迎え、上大夫の地位に就け、百里奚ともども重用した。

百里奚はこの期待に応えて、国力を大いに増大させ、秦の発展に務めた。

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