
生没年 | 生没年不詳 |
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時代 | 戦国時代 |
所属国 | 秦 |
<史実>
王翦(おうせん)は秦の中国統一に貢献したことで知られる中国戦国時代末期の秦の名将。
王賁(おうほん)の父、王離(おうり)の祖父。
頻陽(ひんよう)の出身。
紀元前236年、桓齮(かんき)、楊端和(ようたんわ)と共に趙を攻め、9つの城を落とした。
その後、再び趙を攻め、紀元前228年に羌瘣(きょうかい)と共に趙を滅ぼした。
紀元前227年、燕の太子丹(たん)が送り込んだ刺客荊軻(けいか)による秦王政暗殺未遂事件が起こり、秦王政はただちに王翦に命じて燕を攻めた。王翦は燕、代連合軍を易水の西で破り、翌年の紀元前226年には王賁と共に燕の都・薊(けい)を攻略、燕王喜(えんおうき)と太子丹は遼東に敗走した。
紀元前225年、秦王政が楚の攻略の際、王翦と李信(りしん)に対して対楚戦でどれほどの兵力が必要か意見を求めた。
そこで李信が20万で十分だと答えたのに対し、王翦は60万が必要だと答えた。これを聞いた秦王政は王翦が耄碌(もうろく)したものと考え、李信の案を採用した。意見を聞き入れてもらえなかった王翦は病気を理由に引退して、故郷へと帰ってしまった。
しかし李信が楚に大敗すると、王翦が正しかったことを理解した秦王政は、自ら王翦のところに赴き出兵を要請した。
王翦は60万の兵を出すことを条件にこれを引き受けた。
楚を攻めに出発することになった王翦は、出発のとき見送りにきた秦王政に対し、褒美として肥沃な田畑、豪華な住居、池のある庭園などを要求した。さらに出発した後も何度も使者を送り、恩賞をねだった。
これは秦王政の性格をよく理解していた王翦が、自分の身の安全を確保するために行ったことであった。60万の兵といえばほぼ秦の全兵力である。猜疑心(さいぎしん)が強い秦王政からすれば、そんな大軍を率いている王翦が反乱することを内心恐れているだろうと考え、何度も褒美を要求することでそれが目当てだとわからせて、それ以上の野心は持っていないということを示したのである。
こうして紀元前224年、王翦は60万の大軍を率いて、蒙武(もうぶ)と共に1年がかりで楚を攻め、楚王負芻(そおうふすう)を捕え、楚を滅ぼした。
楚の項燕(こうえん)は秦に仕えていた楚の公子・昌平君(しょうへいくん)を淮南(わいなん)の地で王に立てて反抗したが、翌年の紀元前223年、王翦と蒙武の率いる秦軍の攻撃を受けて、昌平君は戦死して項燕は自殺し、楚は完全に滅んでその領域は秦の群県となった。
<横山光輝史記>
第24話、第25話に登場。
<キングダム>
蒙驁(もうごう)軍の副将として登場。初登場は第201話。
王騎将軍を輩出した名門王一族の現頭首。
常に顔の半分を覆う仮面をつけている。
数々の功績を挙げており、大将軍となってもおかしくない実力の持ち主ではあるが、王座を狙っているとの黒い噂から、秦国一の危険人物として長い間重用されずにいる。
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