李 信:リ シン

生没年 生没年不詳
時代 戦国時代
所属国

<史実>

李信(りしん)は中国戦国時代末期の秦の将軍。

 

紀元前227年、燕の太子丹(たん)が送り込んだ刺客荊軻(けいか)による秦王政暗殺未遂事件が起こり、秦王政はただちに王翦(おうせん)に命じて燕を攻めた。

王翦は燕、代連合軍を易水の西で破り、翌年には燕の都・薊(けい)を攻略、燕王喜(えんおうき)と太子丹は遼東に敗走した。

この際、李信は約1000の兵を率いて、遼東に逃げ込んだ燕王喜を追撃し、窮地に陥った燕王喜は太子丹を殺してその首を秦に差し出すことでひとまずの許しを得た。

 

紀元前225年、秦王政は楚の攻略を決め、李信と王翦に対して対楚戦でどれほどの兵力が必要か意見を求めた。そこで李信は20万で十分だと答え、王翦は60万が必要だと答えた。

秦王政は王翦が耄碌(もうろく)したものと考え、李信の案を採用して、李信と蒙恬(もうてん)に20万の兵を与えて楚の侵攻を命じた。

意見の取り入れられなかった王翦は引退して故郷へと帰ってしまった。

 

李信と蒙恬は二手に分かれて楚に向かい、それぞれ平与(へいよ)と寝丘(しんきゅう)を攻めて大勝した。その後、李信は西進して城父(じょうほ)で蒙恬と合流するが、密かに追跡して来た項燕(こうえん)率いる楚軍の奇襲に合い、2ヶ所の塁壁(るいへき)を破られて7人の将校を失い、大敗を喫した。

これを聞いた秦王政は大いに怒り、王翦が正しかったことを理解すると、自ら王翦のところに赴き陳謝して出兵を要請した。

こうして紀元前224年、王翦は60万の大軍を率いて楚を攻め、楚王負芻(そおうふすう)を捕え、楚を滅ぼした。

楚の項燕は秦に仕えていた楚の公子昌平君(しょうへいくん)を淮南(わいなん)で王に立てて反抗したが、翌年の紀元前223年、王翦と蒙武(もうぶ)が率いる秦軍の攻撃を受けて、昌平君は戦死して項燕は自殺し、楚は完全に滅んでその領域は秦の群県となった。

 

紀元前222年、王賁(おうほん)と共に燕の遼東を攻め、燕王喜を捕らえて、燕を滅ぼした。

更に翌年の紀元前221年、王賁、蒙恬と共に斉に攻め入り、都の臨淄(りんし)を包囲すると、斉王建(せいおうけん)は戦わずして降伏し、斉は滅びた。

 

李信の子孫には、前漢時代の将軍で、匈奴(きょうど)から“飛将軍”と怖れられた李広(りこう)がいる。

 

<横山光輝史記>

第24話、第25話に登場。

 

<キングダム>

主人公の信として登場。

戦災孤児の信は城戸村(じょうとむら)の集落の長・里典(りてん)の下で、同じく戦災孤児の漂(ひょう)と共に下僕(げぼく)として奴隷同然の生活を送っていた。

二人は今の生活から抜け出し、いつか歴史に名を残すような「天下の大将軍」になることを夢見て、仕事の合間に修行して剣の腕を磨いた。

ある日、昌文君(しょうぶんくん)と出会った漂は、とそっくりな容姿をしていたことから目に留まり、王宮に仕える機会を得る。

その役割は王の影武者という危険なものであり、当然命の保証など無かったが、もとより全てを懸ける覚悟だった漂は、夢への第一歩として影武者を引き受ける。

その後、王弟成蟜(せいきょう)の反乱に巻き込まれた漂は、竭(けつ)氏の放った刺客に深手を負わされ、命からがら城戸村へと戻り、信に全てを託して息を引き取った。

そして、漂から手渡された地図を手に黒卑村(こくひむら)へとやって来た信は、そこの小屋に身を潜めていた政と出会い、ここから物語は大きく動き始める。

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