生没年 | 紀元前696年~紀元前628年 |
---|---|
時代 | 春秋時代 |
所属国 | 斉 |
晋の文公(しんのぶんこう)は中国春秋時代初期の晋の君主【在位前636~前628】
姓は姫(き)、名は重耳(ちょうじ)
晋の第19代君主献公(けんこう)の時代、側室の驪姫(りき)は子の奚斉(けいせい)を世継ぎにしようと画策した。
当時、献公には申生(しんせい)、重耳(のちの文公)、夷吾(いご)(のちの恵公)という息子らがいたが、驪姫は策謀を巡らせ申生を自殺に追い込み、重耳と夷吾の命も狙った。(驪姫の乱)
このため身の危険を感じた重耳と夷吾の2人は国外へと亡命することとなった。
重耳は母の故郷である狄(てき)へと亡命した。このとき既に43歳であった。
その後、重耳は19年間諸国を放浪したのち、62歳のときに晋へ帰国して君主となり、文公として即位した。
紀元前632年、晋と楚がそれぞれ同盟軍を従えて激突した城濮(じょうぼく)の戦いでは、晋が楚に大勝し、この活躍により文公は覇者としての地位を確立した。
そして、覇業の完成から4年後、惜しまれつつこの世を去った。
覇者のうち代表的な5人を挙げて春秋五覇と呼ぶが、文公は斉の桓公と並んで斉桓晋文(せいかんしんぶん)と称され、その筆頭に挙げられる。
<横山光輝史記>
第3話、第4話に登場。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。