生没年 | ?~紀元前238年 |
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時代 | 戦国時代 |
所属国 | 楚 |
<史実>
春申君(しゅんしんくん)は中国戦国時代の楚の宰相。戦国四君子(せんごくしくんし)の一人。
姓は黄(こう)、名は歇(あつ)
四君子の他の3人は王族であったのに対し、春申君は庶民の出身であった。
諸国に遊学して見聞を広め、楚の頃襄王(けいじょうおう)に仕えた。
秦が楚に攻め込もうとしていたとき、黄歇は弁舌をふるって秦の昭襄王を丸め込み、楚と秦の和平を結ぶことに成功した。この後、黄歇は楚の太子完(かん)(のちの考烈王(こうれつおう))の侍従となった。楚は和平の証として太子完を秦に人質として送ることになり、黄歇もこれに同行した。
紀元前264年、楚の頃襄王が病に倒れた。このままでは後継者争いが起こり、太子完の立場が危ないと考えた黄歇は、太子完をこっそり楚に帰国させることにした。太子完は変装して秦を出国し、秦に残った黄歇は太子完が国境を越えるまで、病気と偽って誰にも合わなかった。
しばらくの後、黄歇は昭襄王に太子を帰国させたことを告げた。昭襄王は怒り、黄歇を処刑しようとしたが、秦の宰相范雎(はんしょ)が楚との和平を保つほうが得策であると取り成し、黄歇は帰国を許された。
その3ヵ月後、太子完が考烈王に即位すると、黄歇は宰相の地位につき淮北(わいほく)の12県を賜り、春申君と呼ばれるようになった。
紀元前258年、趙の都・邯鄲(かんたん)が秦に包囲されると、趙の平原君(へいげんくん)は他国に救援を求めた。春申君はこれに応じて兵を出し、他にも魏の信陵君(しんりょうくん)の援軍により、秦は邯鄲の包囲を解いた。
紀元前248年、春申君は考烈王に「淮北は斉との境に接する重要な地ですから、国直轄の郡としたほうがよいでしょう」と進言し、淮北の12県を献じた。淮北の代わりに江東を賜った春申君は、かつての呉の城跡を自らの都邑(とゆう)とした。その後、兵を率いて魯を滅ぼした。
また、春申君は食客を3千人集め、その中には「性悪説」で知られる荀子(じゅんし)がいた。春申君は荀子を蘭陵(らんりょう)の長官とした。
紀元前241年、春申君は楚、魏、趙、韓、燕の5国合従軍(がっしょうぐん)を率いて秦を攻めたが、函谷関(かんこくかん)で大敗した。
同年、春申君の提言により楚は寿春(じゅしゅん)に遷都した。
春申君の食客に李園(りえん)という者がいた。春申君は李園の妹を寵愛した。
やがて妹が春申君の子を身ごもると、兄妹は相談して企みをめぐらし、妹は春申君に「私を楚王に献じていただいて、お腹の子を王の子だということにすれば、あなたの子が次の王となり、楚の国はあなたのものとなるでしょう」と唆(そそのか)した。考烈王にはまだ子がいなかったのである。
春申君は李園の妹を考烈王に献上し、子が生まれるとその子は太子となった。李園の妹は皇后となり、その兄である李園も重用された。
紀元前238年、考烈王が病になると、春申君の食客の朱英(しゅえい)は春申君に「楚王が亡くなれば李園は口封じのため、あなたを殺すでしょう」と忠告した。しかし、春申君はこれを聞き入れなかった。
やがて考烈王が没すると、朱英の言葉通り、春申君は李園の刺客によって殺されてしまった。
<キングダム>
戦国四君子の最後の一人で、その名は中華全土に知れわたるという有力者。
大国・楚の宰相にして軍の総司令官。
臨武君(りんぶくん)のことを「ハゲ」と呼ぶなど、少々口が悪い。
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