呂 不韋:リョ フイ

生没年 ?~紀元前235年
時代 戦国時代
所属国

<史実>

呂不韋(りょふい)は中国戦国時代末期の秦の宰相。(丞相→相国)

 

陽翟(ようたく)の大商人であった呂不韋は、たまたま商用で趙の都・邯鄲(かんたん)に出掛けたときに、人質として送られていた安国君(あんこくくん)の子・子楚(しそ)(のちの荘襄王)に出会う。

当時、秦の太子であった安国君には20数人の子があった上に、母の夏姫(かき)は安国君からの寵愛を失っていたことで、太子にたてられる見込みもなかった子楚だが、呂不韋は彼を「奇貨(きか)(掘り出し物)」と見て、子楚に金を投資して彼を後継者に立てることに尽力した。(「奇貨居くべし」の故事)

こうして子楚は安国君の世継ぎとなったが、子楚は呂不韋が囲っていた趙の芸者を気に入り、譲ってほしいと申し入れてきた。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断って子楚が離れてしまってはこれまでの苦労が水の泡だと思い、女を子楚に譲った。

実は女が子楚に嫁いだとき既に呂不韋の子を妊娠していたが、呂不韋と女はそれを隠し通し、子楚の子だということにしてしまった。その子が(のちの始皇帝)である。

呂不韋が政の実の父であるというこの話は当時から広く噂され、『史記』でも事実として書かれているが、その真偽は今となっては不明である。

 

その後、秦の昭襄(しょうじょう)王が死去して、太子安国君は即位して孝文(こうぶん)王となるが、高齢だったために即位からわずか3日で死去し、子楚は荘襄王として即位した。

このとき呂不韋は丞相となり、文信侯(ぶんしんこう)に封(ほう)ぜられた。

 

さらに紀元前246年、荘襄王が死去すると太子の政が秦王に即位した。このとき政はまだ13歳で後見役が必要な時期であったため、呂不韋は相国(しょうこく)となり、仲父(ちゅうほ)(父に次ぐ人という意味の尊称)の称号を授けられた。こうして呂不韋の権勢はますます上がり、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

呂不韋のもとには多くの食客(しょっかく)が集まり、その数は3000人にも上った。呂不韋は食客の学者たちに命じて、『呂氏春秋』という書物を完成させた。これは戦国諸家を集約編纂(へんさん)した書で、諸子百家の思想を始め、天文、地理などの諸学説や伝説まで網羅した、一種の百科事典のようなものである。呂不韋はこれを自慢して「もし一字でも減らすか増やすか出来る者があるなら千金を与えよう」と言ったほどの出来栄えだった。(「一字千金(いちじせんきん)」の故事)

 

呂不韋は相国となってからも、政の母である太后との密通を続けていた。この関係を続けるのは危ないと感じた呂不韋は、嫪毐(ろうあい)という巨根の男を太后にあてがった。嫪毐は宦官(かんがん)に偽装して後宮に送り込まれ、太后は嫪毐に夢中になり、子を2人生んだ。

やがて太后と嫪毐の密通が発覚し、嫪毐は反乱を起こした。だがこれはすぐに鎮圧され、嫪毐は車裂きの刑に処された。そして呂不韋もこの一件に関わっていることが知れると、相国を罷免(ひめん)され河南(かなん)に蟄居(ちっきょ)することになった。

蟄居後も呂不韋のところには諸侯の賓客(ひんきゃく)や使者が絶えず訪れたため、秦王政は反乱を起こすのではないかと恐れて呂不韋を蜀に流した。

「やがて殺されることになる」と自らの末路を悟った呂不韋は翌年、毒をあおって自殺した。

 

<横山光輝史記>

第21話、第22話に登場。

 

<キングダム>

秦の丞相で、政界の最大派閥の長。

己の勢力を拡大させるための人材集めに余念が無く、呂不韋派には各分野の専門家たちが集められており、その中でも蔡沢(さいたく)、李斯(りし)、昌平君(しょうへいくん)、蒙武(もうぶ)の4人は「呂不韋四柱」と呼ばれている。

呂不韋が魏遠征に出ている最中、二番手勢力である竭(けつ)氏が王弟・成蟜(せいきょう)と組んで反乱を起こした。

王都からの早馬でそれを知った呂不韋だが「それはこの呂軍の包囲を逃れたい魏の軍の策謀である」と言って、伝者の首を刎(は)ねさせ、咸陽(かんよう)に戻ろうとはしなっかった。

商人から丞相にまでのぼり詰めた呂不韋の欲は尽きることを知らず、自らが王として君臨するべく虎視眈々との隙を狙う。

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